トリイ学長です。
さて、最近は教育にコミットすると決めて楽しく事業運営したり勉強しているわけですが、
「日本の教育はオワコン」
みたいな意見はチラホラ見かけます。
実際に教育の現場にいる方とお話ししたり、教育の歴史を調べたりもしましたが、確かに問題多そう。
ただ、いつもながらそこは温故知新というやつで、古きを知り、初めて新しいものを生み出せるというもの。
本当に無価値なものは何十年も続いたりしません。
今日は、日本の教育システムは何が問題で、どう変えていくべきか?みたいな話を、その辺りをしっかり踏まえながら進めていけたらいいなと思います。
ということで久々にマイクを握りました。
お付き合いください。
実際に子供が小学校に入って思うこと
今年から1番上の子供が小学校に上がりました。それもあって、「本当に小学校に入って大事なことが学べるのか?」という疑問に向き合うことになったわけです。
まだ1週間くらいですが、実際に入ってみて感じたのは、
「すごい仕組みやな」
という事です。
創立100年近い学校なのですが、さすがにシステムが素晴らしい。
これって結局「安易な大企業ディス」と似ている話だと思ってて、私は大企業もベンチャーも個人事業も経営もやりましたから、大企業のシステムの凄さは本当に凄いと感じてます。
言ってみれば、小学校は「100年企業」みたいなもんですよ。
システムが発達してて、とにかく親からしたら「放っておいてもギリギリなんとかしてくれる」という感じでめっちゃ楽。
システム化が進んでるから、あんまり考えなくてもなんとかしてくれる。
とにかく楽。
これは大企業も一緒で、言っときますけどベンチャーなんか自分で創ったら、マジでシステム化していくのめちゃ大変ですからね。
その辺のケーススタディを潰しまくって、とりあえず入ったら全員がうまく仕事ができて役に立てるようになってるのが大企業のシステムの凄さであり、同じことが小学校などの教育機関にも言えるわけです。
つまり創立100年の小学校というのは、100年続いた老舗企業みたいなもんで、
システム化
が異様に発達しているという事だと感じました。
集団の登下校、見回り当番、PTA、行事、授業など、全てがケーススタディを反映させていった上に100年かけて構築された素晴らしいシステムです。
起業家としてみると、
「めちゃくちゃ良くできている」
としか言えない。
単純にすごい。
そして、もちろん老舗企業と同じような負の側面も持っていて、
組織の硬直化
という話がそこに当然のように横たわっています。
「何枚、紙配るんだよ」
「今どき、なんで連絡帳で連絡させてんだよ」
「先生が自由な教育スタイルを発揮できない」
「無駄で形骸化した雑務が多い」
などは、老舗企業の弊害と同じようなものです。
教育は何のためにあるのか?
最近、教育系の文献などを読んだりしていて、結局教育は何のためにあるのか?というところを考えたりしています。
以前の投稿で
●くいっぱぐれないスキルを身につける
●倫理観を身につける
●社会性を身につける
の3つくらいが教育の目的なんじゃないか?という風に結論付けました。
しかし色々学んでみると、その前に教育には「誰のための教育か」という概念があるように思います。
つまり、そもそも教育には「富国強兵」という目的が大きなウェイトを占めてスタートしている節があります。それでは教育とは「国のためにあるのか?」という視点も出てくるわけです。
私は、教育というと「その人のためにある」ものだと勝手に勘違いをしていましたが、そもそもが目的が「国のための教育」と「個人のための教育」では最初から目指していることが違う。
なるほど、違和感はそのせいだったのか。と腑に落ちた感じがあります。
国のために人を育てる⇒国力に貢献する人間を育てるのが目的
個人のために人を育てる⇒個人の幸福度が高い人間を育てるのが目的
文明のために人を育てる⇒文明レベルを維持して人類全体を繁栄させられる人間を育てるのが目的
そりゃー全然違うものになる。
当たり前すぎる。
ここが食い違ったまま、良い教育は何か?を語ることはできない。
最近、私はそういう風に感じています。
教育にはいくつかの目的があるんですね。
ここまでで、
●小学校は老舗企業みたいなもん
●教育には「国のため」「個人のため」「人類のため」など色んな目的がある
という話をしました。
次に、教育にかかるコストの話をします。
長くなるので、お茶でもどうぞ
教育にかかるコストとは何か?
教育にはコストがかかります。
私は50年以上前の文献で「経験学習」という「カリキュラムを使わないで教えるスタイル」について読んだのですが、その本では
「なぜ、理論的に素晴らしいはずの経験学習がメジャーにならないのか?」
という話が説明されています。
経験学習は、はるか昔から素晴らしいものとして取り扱われてきていますが、いまだに普及していません。
経験学習(問題解決学習などとも呼ぶようです)と対立する概念として、「系統学習」が存在しますが、結局いつの時代もメジャーになるのは系統学習。
「教育」が分業化されて以来、何度か揺り戻しが起こるものの、系統学習(カリキュラムに従って順番に身につけていく学習方法)は常に経験学習よりも大きなシェアを占めているように感じます。
(ちなみに、日本でも戦後に様々な「教育の民主化」のための制度が輸入されていますが、結局は系統学習が主流となっています。)
なぜでしょうか?
経験学習は言います。
「教育が分業化される前、はるか昔から人間は目の前のことに取り組むことで必要なことはすべて主体的に身につけてきたはずだ」
これは、大変理解しやすい考え方です。
しかし、普及しない。
なぜでしょうか?
ここについて、私もうまく解釈できていない部分も多いのですが、「経験学習は教育コストが大きいから」という考えに至っています。
系統学習は、言い換えると
「教育のパッケージ化」
です。これは、続ければ続けるほどコストが下がる仕組みになっています。
つまり、技能習得を目的にした場合に、圧倒的にスケーラビリティがあるのが系統学習なのです。
情報が電子化した今、それはさらに顕著になってきています。今どき、大学受験の予備校は「サテライト授業だった」という人もかなりの割合を占めているのではないでしょうか?
素晴らしいパッケージさえあれば、同時に何万人にでも同じレベルの知識と技能を習得させることができます。
これが系統学習の圧倒的なメリットと強みであり、教育が「ビジネスとして分業化した」あとの世界で、経験学習が普及しない理由でもあります。
そしてこれは、「国のための教育」に関しては最も効力を発揮します。
国のための教育では、できるだけ投入されるコストをさげて、最低ラインを超えた「産業力に貢献できる技術者」を増やすのが目的となるからです。
失礼、茶菓子を忘れていました
さて、ここまでで
●小学校は老舗企業みたいなもんだ
●教育には「国のため」「個人のため」「人類のため」など色んな目的がある
●系統学習は圧倒的にコストが低く、国のための教育にとって整合性が高い
という話をしてきました。
次に、子供預かり所としての教育機関という話をします。
子供を預かってもらえるという感覚
小学校に娘を入れて、実は思ってもいなかった感覚になりました。
「教育もしてくれる託児所」
という風に学校を考えると、とても素晴らしいシステムだということです。
つまり、教育機関ではなく、子供を預かってくれる施設だという風に捉えると、これ以上ない素晴らしいシステムなのです。
これは、「国のための教育」にとってさらに都合が良いことです。
親は、日中に子供を気にせずガンガン働いて、富国強兵に貢献することができます。
そして、子供は系統学習によって低コストで国力に貢献できる人材が量産されていきます。
そう考えると、今の日本の教育は
「国のための教育」
にとっては、最高のシステムになっています。
● イノベーションが起こりにくい
とか
● 主体性が伸びない
などと言われるかもしれませんが、この教育システムの発達がここ100年の日本の成長を支えたことは間違いありません。
問題は、今の先進国の国民が、
「国のための教育」
に満足するか?という話になります。
ベンチャー界隈では「成長はすべてを癒す」という言葉があります。
何もないころ、上だけを見ているころ、足りないものが多すぎるころ、ベンチャーの創業期にはどんなに困難が訪れても、「事業が成長していれば最終的に問題は解決されていく」という意味で使われます。
国にも同じことが言えるでしょう。
● 日本が貧しい
● 日本を押し上げたい
● 日本を豊かにしたい
(そうすれば、自分たちも豊かになる)
というベンチャー創業期のような感覚で、「国のための教育」に国民が満足できる時期もあると思います。
もしかすると、今の日本はそういう時期は通り過ぎてしまったのかもしれません。
国境は限りなく薄くなり、ボーダーレスに世界とつながるのが当たり前の時代です。
私も、もはや日本国民というよりは「世界国民」「インターネット民族」という感覚で生きています。
国力の増強という考えから、
「人類全体への貢献」
「個人の幸福度の追求」
に重きを置く人が増えているように感じます。
すいません、もうすぐ終わります。
ここまでで、
●小学校は老舗企業みたいなもんだ
●教育には「国のため」「個人のため」「人類のため」など色んな目的がある
●系統学習は圧倒的にコストが低く、国のための教育にとって整合性が高い
●子供を預かってくれる側面は親のリソースを開放し、それは国力増強にとって効果的だった
という話をしてきました。
最後に、これからの必要な教育について話します。
老舗企業の弊害は回避できるか?
高度にシステム化された教育機関では、
組織の硬直化
という分かりやすい弊害を抱えます。
そして、問題は「教育とは未来にとって必要なことを教える必要がある」ということです。
国のため、個人のため、人類のため。
目的は変わろうとも、共通しているのは
「未来の」
という部分です。
「100年前の日本」にとって必要なことを教えても、目的は果たせません。
教育は、未来への投資なのです。
硬直化した組織は、柔軟性を失い、「未来にとって必要な教育」を提供できなくなっている可能性があります。(例えば、ここ最近全く文字を自分で書かなくなった私からすると、えんぴつの握り方が正しいかどうか?はどうでも良いことです。10年したら考えるだけで文字が入力できるようになっているでしょう)
逆に言えば、
未来にとって必要な教育が提供できること
が、現在の教育に足りていない要素であり、新しい教育システムを構築する際に取り入れるべきだという事になります。
それを除くと、老舗企業のシステムは採用するべき素晴らしいものがたくさんあります。
既存の学校のシステムを研究し、大いに参考にして取り入れていくべきでしょう。
教育は誰のためであるべきか?
教育にはさまざまな目的がありますが、少なくとも国家という概念は今後も薄れていくでしょう。
言ってしまえば、どこでもドアがあって世界中が繋がってしまえば、戦争もクソもありません。すべてが「ドアの向こう」にあるのですから、隣の家と争うようなものです。
今後、個人や人類全体の幸福度を追求していく人間が増えるでしょう。
その場合、これまでの「国のために最も最適化された教育」は再構築されていく必要があります。
個人の幸福度を高めるための教育とは何か?
人類全体に貢献できるための教育とは何か?
という視点を持ち、教育システムを構築していくべきでしょう。それは、結果として国力にも繋がるはずです。
次で最後です。
系統学習か経験学習か?
系統学習の素晴らしいところは、低コストでスケールできるところです。
ただ、学ぶ側の主体性を奪いやすい性質があります。
国力という全体のための教育であれば、主体性よりもスケーラビリティを優先するべきでしょう。
しかし、これから先進国の教育は「個人」「人類」のためにシフトすることになります。
その場合に、間違いなく必要なのは「学ぶ側の主体性」です。
好奇心、探究心、わくわく、などもモチベーションが無ければ、「個人と人類のための教育」の目的は果たせないでしょう。
しかし、問題は「系統学習の不採用は教育コスト(特に教員の育成コスト)を圧倒的に膨らませてしまう」ことです。
経験学習は、1人あたりの教員が見れる人数が少なくなりがちで、なおかつ教員に高いレベルの知識と知恵が必要です。
ここを解決できないと、先進教育が高コスト化していってしまい、一部の先進国のように「教育格差」が広がっていってしまいます。
私は、その部分を
「探究学習」
「学び合い」
「反転学習」
「オンライン化」
の4つを採用していくことで、解決できるのではないか?と考えています。
生徒が人生の目的を見つけ、探究心を持って学ぶようになるシステムが構築できれば、カリキュラムをベースに反転学習が可能になります。
さらに、学び合いを促進することで、教員の人件費と研修費を下げることができます。
そして、少人数で多数のグループを構築する「物理的制限」を、オンライン化することで低コストにできる。
経験学習の「主体性」「自主性」「創造性」などを採用しながら、
系統学習の「低コスト」「普及性」を取り入れるというミックス案です。
今、その構想でスタートしたオンライン大学が、新しい教育システムとして芽吹いてきた感覚があります。
●そこにいれば、人生の目的や、本当にやりたいことが見つかる。
●生徒は、好奇心と探究心に基づき、自分が学びたいものを学ぶ。
●学習機関は低コストで提供され、世界中からアクセスできる。
●出会い、人間関係、意見の違いを経験しながら、社会と関わり育つことができる。
●生徒が何百人、何千人になっても、教育の品質を落とさずに運営ができるシステムになっている
カリキュラム型の系統学習をオンライン化しただけの教育では、未来にとって本当に必要な教育機関にならないと感じています。
「必要な知識を学べる」ような場所ではなく、「人生そのものが学びに変わっていく」ような場所を創っていきたい。
私は、そう考えています。
おわり。